他人からワナビと笑われたときに読む記事

ワナビ

ワナビとはなんぞや

突然だけど、私は「ワナビ」という言葉が苦手だ。自分が使うのもヤだし、目にするのもイヤだ。「ワナビ」という言葉には蓮コラ的な嫌悪感がある。

そもそも、ワナビとは何なのか。我らがPixiv大百科先生によると、何かになりたい人を指し、否定的な文脈で用いられることが多いとある。もともと、I wanna be~=~になりたい。から派生したネットミームである。

I wanna be a gangstarと言えばサマになるのに、I wanna be a writerと言えば嘲笑を買うのはなぜなのか。中島みゆきの歌にある「闘う君の唄を闘わない奴らが笑うだろう」――これとまったく同じ原理が働いているのではないか。SNSやブログで「ワナビ」という言葉を目にするたびにそんな漠とした考えを抱く。この得も言われぬ嫌悪感を醸し出す言葉について、少し敷衍してみよう。

ワナビの嫌悪感

ワナビ

「ワナビ」の使われる文脈は主に2つ。ネタとして自虐的に用いる場合と、他人の努力を嘲弄する場合。前者の場合は、本人が自虐ネタとしてやってるんだしご愛敬の範囲だと思う。芸人が骨を斬り肉を断つ覚悟で繰り出す渾身の自虐ネタ。あれと同じだと思えばまぁ……うん、わからんでもないこともないこともない。

タチが悪いのは後者のほうで、これはもはや単なる悪意の塊でしかない。オンラインという公共の場で指をさして公然と相手を罵るに等しい。言うなれば、街中で行きずりの人にいきなり「うわwその髪型マジうけるwwww」って指をさして爆笑するのと同じである。

いずれにせよ、使っていてハッピーになることは決してないのは明白。

そもそも、なぜ「なにかになりたい」と表明するだけで悪辣な言葉を投げつけられるのか。道徳の教科書的な発想だと、「うん、頑張ってね」的な温かい言葉をかけるのが自然の流れ。

ところがどっこい。オトナの心はなかなかどうしてピュアじゃない。他人の芝は青く見えるし、知らず知らず自分と他人を比較して自分の首を絞めていることもしばしば。嫉妬・羨望・やっかみ・自己嫌悪・自己否定――こういった諸々の感情がどうしてもまとわりつく。

じゃあ、どうしてそんな悪感情を抱くのか。

それは何かに向かってひた走る人が、すごく輝いて見えるからだと思う。ある目標に向かって邁進している人ですら、同類の姿を認めるや嫉妬や羨望の念がふつふつと湧いてくるのに、それが何もしていない人なら尚のことではないか。

脇目も振らず何かに没頭している姿って、私はすごくカッコいいと思う。スポーツ選手、アーティスト、家事ガチ勢の主婦。べつにクリエイターに限らずとも、クソほどマニアックなミリオタとか、靴愛好家だとか、ゲーマーでも何だっていい。何かのめり込めるもの――大業物の刀剣のごとく、キレっキレに尖った何かを持つ人って、すごくクールだと思うのだ。

客観的に見て、私は世間基準から大きく逸脱したアウトサイダーだと自覚してる。さいわい、私の周りの知人は寛大な人が多いから、浮世離れした私に冷罵を浴びせることはないんだけれど、これが初対面だったり知り合って間もない人だとゼロとは言い切れない。

往々にして、「へぇ~、パトリックさん、だいぶ変わってますね」って面と向かって言われる。でも、こうやって言われるたびに、私は心の中で「マジっすか。あざっす!」と喜色満面で返す(外見はふてくされた顔で、見るからに機嫌損ねた感じに振る舞うけどな……)

私の大好きな映画監督、若き天才グザヴィエ・ドラン監督がカンヌ国際映画祭で賞を獲ったときに言った素晴らしいスピーチがある。ゲイであることをカミングアウトしているドラン監督は、スピーチの中でこう言った。

「他人と違うことを嫌う人を、私は嫌う」

うん。すごくフランス的で迂遠な言い回しだけど、なんとも美しい言葉。

私は他人から「あんた変わってるね」って言われるたびに、この言葉を思い出してしまう。というのも、今よりも純粋でサリンジャー的なナイーブさを発揮していた思春期は、他人との間に大きな隔意を感じていた。やっぱり自分ってちょっと変なのかな……とか、ライ麦畑のホールデンよろしく、堂々巡りの自問自答を繰り返していた時期。そんなときに出会ったのが、この言葉だった。

そもそも、平々凡々で何の変哲もなければ何のエッジもないヤツほどクソつまらん存在はない。一作目がことのほかヒットして、急遽やっつけ仕事で撮りあげたブロックバスター映画の二作目なみに面白くない。エッジの効いたヤツ=変わったヤツ=変人ほど面白いヤツはいないのである。

で、「ワナビ」をバカにする人というのは、私たちのような変人を夾雑物だと思うようなブロックバスター映画二作目タイプなのだ。人は自分と違うというだけの理由でそれを忌避する傾向にある。自分には何もないから、他人の存在が輝いて見える。

だからまぁ、ワナビだと後ろ指をさされても、「マジっすか。あざます!」くらいのノリで、むしろウェルカム感を出しちゃえばいいと思うのよ、オジさんは。

ワナビからジャストへ

Just Do it

ジャスコ……

自己啓発本なんかで度々目にする目標設定の話。「~したい」ではなく、実現可能な目標を立てて、マイルストーンを設定して……こんな与太は、なっち語でいうところの「プッシー野郎」である。

人類に必要なのは「~になりたい(I wanna be)」ではなしに、「とりま、やってみる(Just Do it)」の軽いノリと勢い。どっかのIT企業の誰かさんがネットの記事で「just Do it教」なる布教活動をしていたけれど、半分は冗談としても半分くらいは本気で広めるべきだと思う。

「~になりたい」という言葉には「いつか、できればいいかな」といったニュアンスが含まれる。目指すべきゴール地点に、もやがかかっているようなイメージ。対する「とりま、やってみる」の軽さたるや。至ってシンプル。アップルの天才デザイナー、ジョナサン・アイブもびっくりなくらい簡潔にしてエレガント。

世界に冠たる映画監督、黒澤明さんが下積み時代に脚本を書いたときのエピソードを次のように語っていた。

「脚本を書くのはマラソンと同じ。顔を前にあげちゃいけない。少しうつむき加減で下を向いて、一歩ずつ着実に進んでいく。そうすれば、いつの間にかゴールに着いてる」

あの世界のクロサワも、下積み時代には疲労困憊の身体に鞭打ってコツコツ脚本を書いていた。「とりま、やってみた」結果――それを延々と継続した結果、あれほど重厚な人間描写ができるまでの神になったのだ。途中から共同脚本の体制になったれど、初期の作品、たとえば「静かなる決闘」とか小説なみの心理描写の連続ですよ。あんなの、誰もまねできないよ。やっぱすげぇよ、クロサワさん。

あ、話が逸れたけれど、ジャスト(Just Do it)ね、ジャスト。

とりま、やってみる。何も気難しいこと考える必要なんてない。とりあえず手足動かしてやってみる。気分が乗らない? かまへん、かまへん。とりま、やってみる。時間がない? 気にしたらアカン。とりま、やってみる。

周りからワナビだと誹られようが、何言われようが、テキトーに「へいへい」って受け流しておいて目の前のことを「とりま、やってみる」。だから、気にする必要なんて微塵もない。自分に対して自虐的に「ワナビ」を使ってる人へ、心がぐっと軽くなるから今すぐ止めよう。どうせなら、ジャスコにしよう。ジャスコ。違う、ジャストや。

では、あでゅー。

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