煙草について語るときに我々の語ること

タバコ アニメ

他人の煙草は美味く見える

近頃、煙草のCMをめっきり見なくなった。今やJTプロデュースの喫煙所でしかお目にかかることもない。でもって、受動喫煙禁止法なる喫煙者狙い撃ちな新ルールも施行されて、いよいよ肩身が狭い今日この頃。

この前、ふと思ったのよ。どうして、フィクションの中で出てくる煙草ってあんなに映えるんだろう。小説、映画、イラスト……エトセトラ。フィクションの中で描かれる煙草は、どれもこれも美味しそうに映る。ビールのCMで喉をごくごく鳴らしながら呷るビールが、やたらと美味しそうに見えるのと同じように。

今や圧倒的マジョリティとなった喫煙者諸氏の中には、映画の中で役者さんが吸っていた煙草に憧れて吸い始めた人も多いのでは。少なくとも、私はそうだった。

20世紀のフランス映画、30年代40年代のハリウッド映画。そこに登場する役者たちの吸う煙草の美味しそうなことったら、もうね。ジブリ作品の食べ物なみにシズル感漂ってますよ。

ハンフリー・ボガードとか、アラン・ドロンみたいな二枚目俳優が、悠然とシガレットケースから煙草を一本取り出して火をつけるわけですよ。煙がしみた目を眇ながら、紫煙を吐き出す。で、一拍の間を置いてから「で、要件は……?」とか切り出すわけ。

渋い。ぐう渋い。

でもって、往年の映画や小説なんかでは、登場人物がところ構わず煙草に火をつける。ぽいぽい捨てる(現代人はやっちゃダメ)

なんとも融通無碍なその所作にほんのりと憧れを抱くのは自然の流れ。でね、この前、煙草を吸いながらそんなとりとめのないことを考えておったわけですよ。そして、至った結論は、映画こそ最強の煙草CMなんじゃないかってこと。

映画=最強の煙草CM

マッツ タバコ

© 2019 Sony Interactive Entertainment Inc. KOJIMA PRODUCTIONS.

 

映画関係者がこれを読んだら怒り心頭に発するんだろうけれど、あくまで一人の愛煙家の独り言だからご寛恕願いたい。っていうか、見逃して(切実)

そもそも、映画というのは視覚と聴覚、時間の3つを刺激する娯楽媒体。その影響力は戦時中にしたたか量産されたプロパガンダ映画で実証されてるし、スターリンやヒトラーのお墨付きもあるほど。

でもって、映画にはストーリーがある。キャラクターがいて、観客たる私たちは作中の人物の視点から物語の世界に入っていく。ともすれば、映画を観ている間、観客はキャラクターと一体化しているわけであって、そこで生まれる感情も、感覚も、まるで自分のことのように受け取る。これは小説も同じ――というか、一体化するという意味では小説のほうに軍配があがる――けれど、それはさておき。

映画に没入している間、私たちは劇中の人物たちと一体化する。もし、一体化できない――映画に没入できなかったとすれば、ストーリーに欠陥がある。

文句は脚本家としてクレジットされている人に言いましょう。

で、一体化しているということは、少なからずその人物に対して好感なしい共感を抱いていることになる。ここまで完了すれば、もはや口コミと同じ。自分の好きな人から「これマジすげえわ」って言われたらイヤでも気になる。その人が心底美味そうに煙草を吸っていた日にゃ、そらもう……ね。

映画にはかくも強力な刷り込み効果がある。その証左に、劇中でスポンサーの企業名を言わせたり商品を目立たせたりするマーケティング手法がいまだに根強く存在する。まぁ、21世紀の映画は時代の要請か、いきおい禁煙が主流となりつつあるけれど。

最近だと、マッツ・ミケルセンの吸う煙草が、これまた美味そうに見える。私、個人的にイチオシの煙草俳優。これは映画じゃないけど、『デス・ストランディング』で軍服を着たマッツが沼からやおら現れて煙草を吸うシーンったら、なんとも美味そう。

やっぱり、フィクションの中で他人が吸う煙草は、美味そうに見える。で、その結果、煙草を吸い過ぎて気分悪くなるというデフレスパイラルにどっぷり浸かるんだけどね。

煙草という名の瞑想装置

ハンフリー・ボガート

© 1942 Warner Bros. Entertainment, Inc.

さてさて、映画こそ最強の煙草CMだという結論に至った翌日。寒空の下で紫煙をふかしながら、またふと思ったことがある。煙草吸ってる間って、思いのほかボケーッとしてることが多いなということ。まったくもって思考停止して目もうつろにプカプカと煙ふかしてるわけではないけれど、往々にして頭が空っぽになっていることが多い気がしたのよね。

息をつく暇もないほど多忙なとき、ふと一服すると、頭の中で色々なことが浮かんでくる。あ、あれ発注しなきゃな……とか。お、このアイデアでプロット練ったらなかなかいいんじゃね……とか。はたまた、「やべ……オカンにLINE返すの忘れてわ」とか。

煙草を吸ってるとき、頭の中では座禅を組んでいるのに近いことが起こってるんじゃないか。禅宗のお坊さんが聴いたらシバかれそうな、そんなバチあたりなことをふと思った。

ネットで喫煙者のブログなんかを覗いてみると、程度の差はあれど、やはり考えがまとまるとか、気持ちが安らぐといったことが書かれてある。

煙草は、煩悩の塊たる現代人にとっての瞑想装置なのではないか。そんなバチ当たりな仮説に基づいて、約一週間、喫煙時の自分をモニタリングしてみた。その結果わかったことは、瞑想装置として機能する場合と、そうでない場合があるということ。私は基本的にぼっちなので、煙草部屋会議なる社交性を要求されるケースはここでは考慮しない。

まず、仮説通り瞑想装置として機能する場合。これは圧倒的に忙しいさなかの休憩に多かった。ふと一息、ちょっと一服。煙草を取り出して火をつけるまでの過程が多忙であればあるほど、メディテーション的な効果が得られた。

忙しすぎてすっかり忘れていた用事をふと思い出したり、ブログのネタを思いついたり、買おうと思っていた雑誌の発売日を思い出したりといったぐあい。

では、もう一方の場合はどうなのかというと、ほとんど習慣で――というか、惰性で――吸っているだけだということがわかった。喫茶店に入ったとき、ご飯を食べたあと、お酒を飲むとき。これらの場合、なにも意識することなく、これといった理由もなく、ただ闇雲に煙をふかしていただけだった。もちろん、瞑想的な効果などあるわけもなく……

唯一得られるのは、毛髪や衣服にたっぷりと付着した煙草の香りくらいのもので、なにかがひらめくこともなければ、思い出すこともなかった。これらの頻度の割合は1:4くらい。つまり、煙草は瞑想装置だと断言するにはいささか心許ない結果とあいなったわけである。

かくして、煙草を吸いながら何気なく思いついた煙草にまつわる思案は、これといった成果をあげることなく終わりを迎えた。映画という巨大な広告塔で感化され、ハンフリー・ボガードに憧れて喫煙を開始。そして、気がついた頃にはニコチンを欲する体質へと変化し、泥沼のような深みにはまっていくのである。

今日の結論。煙草を吸ってるうちのだいたい五分の一くらいは惰性で吸ってる。これぞ、明瞭たる無駄!

そこまでわかっていても、今さらやめようとは思わないのが我ながら愚かしい。

じゃあな! あでゅー

 

© 1998 サンライズ / バンダイ

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